
私は「キングダム」※1の大ファンです。
この作品は、古代中国の春秋戦国時代末期における戦国七雄の争乱を背景とした物語であり、中国史上初めて天下統一を果たした始皇帝と、それを支えた武将・李信が主人公です。
物語には多くのキャラクターが登場し、それぞれが物語を彩っています。その中で、私が最も尊敬するキャラクターは秦の始皇帝・嬴政(えいせい)(以下、始皇帝)です。やはり、目指すべき人物は始皇帝だと、いつもそう思っています。
ちなみに、原先生の作品に描かれた始皇帝と、実際の始皇帝を比べると、雰囲気には少し違いがありますが、どちらも凛々しさが際立っています。
ここから先は作品のネタバレになるので、始皇帝が全中華を統一した後の話に絞ります。
時は秦王政26年(紀元前221年)、始皇帝が39歳の年に全中華を統一し、500年以上続いた乱世を終わらせました。そして、今までの「王」という称号から「皇」に改め、初めて「皇帝」という称号が誕生しました。39歳でこの偉業を成し遂げた人物は、古来から始皇帝ただ一人です。
その後、始皇帝が行ったことを以下にまとめます。
中央集権体制を確立し、法制度を整備しました。征服した6国の国民をどう統制するかという場面は、キングダムでも描かれています。始皇帝は「法による統制」を掲げ、すべての人が同じ法の下で管理される仕組みを導入しました。法を犯せば、誰でも同じように裁かれます。秦王朝の法は厳格で、時に秦王朝を危機に追い込むこともありました(この部分は後の話なので省略します)。
さらに、封建制から郡県制への変更を断行しました。周王朝時代から続いた古来の支配構造を覆し、政治支配は中央集権に移行。被征服の6国は独立国の体を廃され、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えました。この改革は6国の大貴族の権利を奪うため、秦の統制に支障をきたし、最後のピンチを招く要因にもなりました。
度量衡、通貨、文字を統一し、道路や運河を整備しました。6国それぞれで異なる度量衡や文字が使われていたため、統一しなければ商業は困難でした。これは非常に革新的な取り組みです。想像すると、全世界が同じ紙幣を使うようなものです。統一しなければ実現は難しいでしょう。
最も有名なのは万里の長城です。これは歴代中国の象徴的建造物となりました。当時、北方や北西には匈奴、東胡、月氏などの遊牧民が存在し、南に攻め込むのは困難でした。その防衛策として長城が築かれました。その他、秦始皇帝陵(兵馬俑)、咸陽城・阿房宮、秦直道などは「秦の四大工程」と呼ばれています。後ろの三つは少し贅沢な産物だと思います。
中国統一の翌年、紀元前220年から始皇帝は天下巡遊を開始しました。以後、4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察や祭祀を目的とした長距離・長期間のものとなりました。誰でも、自分の成果と天下の民の生活を一度見てみたいと思うでしょう。
始皇34年(紀元前213年)、始皇帝は郡県制を維持し、儒家思想を排除するため焚書坑儒を実施しました。古典書を焼き、違反者を厳罰に処し、文字を篆書に統一しました。
始皇37年(紀元前210年)、始皇帝は4度目の天下巡遊中に沙丘で病死しました。不老不死の薬は得られず、49歳でこの世を去りました。全中華統一からわずか10年後のことです。その後、秦王朝は15年で滅亡しました。
開始しました。以後、4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察や祭祀を目的とした長距離・長期間のものとなりました。誰でも、自分の成果と天下の民の生活を一度見てみたいと思うでしょう。
始皇帝は中国史上初めて全土を統一した偉大な統治者である一方、その評価は賛否両論です。
肯定的には、度量衡や文字・通貨の統一、中央集権体制の確立など、中国文明の基盤を築いた功績が挙げられます。
否定的には、焚書坑儒による思想弾圧、過酷な労役と重税が民衆の不満を招き、秦の短命政権の原因となったと批判されます。
『史記』には「功は三皇五帝に並ぶが、過もまた甚だしい」と記され、始皇帝は「偉大な統一者」でありながら「苛政の象徴」として語り継がれています。
しかし、私にとって始皇帝は非常に魅力的な人物です。仕事中(巡遊中)に亡くなったという事実も、彼の生涯をよりドラマチックにしています。だからこそ、キングダムを読むとますます面白く感じます。これからも原先生の作品を楽しみながら、歴史も一緒に学んでいきたいと思います。興味のある方は、ぜひ歴史を調べながら作品をご覧ください。
※1『キングダム』は、原泰久による日本の漫画。『週刊ヤングジャンプ』(集英社)において、2006年9号から連載中。