わかりやすさが、本質から私たちを遠ざけるとき
最近、議論が噛み合わないと感じる場面が増えた気がする。
互いに真面目に話している。言葉も丁寧だ。声を荒らげているわけでもない。
それでも、話はどこかですれ違い、前に進まない。
会議が終わったあと、「さっきの話、何が論点だったんだろう」と首をかしげる。
そんな経験が、少なくとも私には増えているのです。
不思議なのは、意見が対立しているわけではないこと。賛成も反対もない。
なのに噛み合わない。まるで、同じ部屋にいるのに別々の窓から外を見ているような感覚。
見えている景色が、どうも違う。
原因は、たぶん見ている世界の「高さ」が違うのだと思う。
抽象度のレベルが揃わないまま、同じ言葉を使っている。
片方が「そもそもこの仕事の目的は何か」と問いかけているとき、
もう片方は「で、具体的に何をすればいいのか」を待っている。
片方が山の頂上から全体の地形を眺めているとき、
もう片方は麓で「この道を右に行くか左に行くか」を考えている。
どちらも間違っていない。
ただ、会話が絡み合わない。
そして厄介なことに、この「高さの違い」は、当事者にはなかなか見えない。
「要するに」の時代
この噛み合わなさの背景には、時代の空気があるように思う。
わかりやすさが、とにかく強く求められている。
難しい話は敬遠され、「要するに何が言いたいのか」が真っ先に問われる。
抽象的な議論は「ふわっとしている」と評され、具体例がなければ不十分だと判断される。
「結論から言ってください」
「一言で言うと?」
「小学生にもわかるように説明して」
こうしたフレーズが、ビジネスの現場で日常的に飛び交う。
私自身、何度も言ったことがあるし、言われたこともある。
効率を重視する場面では、確かに有効だ。
限られた時間で意思決定するには、要点を絞ることが必要になる。
だが、いつの間にか「わかりやすさ」は、
コミュニケーションの作法を超えて、思考の様式そのものになりつつあるの気がしている。
その傾向を最も端的に表しているのが、AIの使われ方かもしれない。
「この文章を、中学生にもわかるように説明して」
今や、ChatGPTやClaudeにごく自然に投げかけられる指示だ。
この使い方自体が悪いわけではない。
教育や理解の入口として、大きな価値がある。
難解な論文を読み解く助けにもなるし、専門用語だらけの文書を人に説明する前の下準備にも使える。
私も日常的にやっているわけだけど。
ただ、この一文には時代の空気が凝縮されている気がする。
わかりやすさが、要請ではなく前提になっている。
「わかりやすくしてほしい」ではなく、
「わかりやすくあるべきだ」という無言の圧力のような…。
削るという行為
わかりやすくする、とは削ることだ。
前提条件、背景、例外、揺らぎ、迷い、対立意見。
それらをそぎ落とし、一つの筋に整える。
複雑に絡まった糸を解いて、一本の線にする作業。
AIは、この削減を人間以上の速度と徹底度でやってのける。
しかも、疲れない。文句も言わない。
何度やり直させても嫌な顔一つしない(顔がないのだから当然だが)。
便利だ。本当に便利だ。
私のような、長い文章を読むと眠くなるタイプの人間には、ありがたい限りである。
だが、問題は何が削られたのかが見えなくなることだ。
「中学生にわかる」形になった瞬間、思考の途中や迷い、対立、未整理な部分は消えている。
それらは「ノイズ」として処理され、きれいに取り除かれる。
後に残るのは、すっきりとした結論と、それを支える最低限の根拠だけ。
もちろん嘘やフェイクとは違う。
内容は正しい。ファクトチェックをしても問題は見つからないだろう。
それでも、正しさを保ったまま、何か大事なものが抜け落ちることがある。
削られたのがノイズではなく、本質の一部かもしれないし。
本質は大概、わかりにくいもんだ
本質とは何か。
これ自体が厄介な問いけど、言ってみれば「それがないと成り立たない核心部分」とでも言おうか。
そして困ったことに、本質は多くの場合わかりにくい。
一言では言えない。
状況によって姿を変える。複数の要因が絡み合っている。
矛盾する要素が同居していることすらある。だからこそ本質なのだし、
もし一言で言えるなら、それはおそらく本質ではなく、本質を単純化したものだ。
「愛とは何か」「正義とは何か」「よい組織とは何か」。
こうした問いに、わかりやすい答えがあるだろうか。
もしあるとすれば、それは「その人にとっての暫定的な答え」であって、
普遍的な真理ではない。
ビジネスの世界でも同じだ。
「この事業の本質的な価値は何か」「私たちは何のために働いているのか」。
こうした問いに、PowerPointのスライド1枚で答えられるだろうか。
答えられたとしたら、たぶん何かを削りすぎている。
ポピュリズムという補助線。
政治の世界を見ると、この構造がさらに鮮明になる。
近年のポピュリズム政治は、極めてわかりやすい。
敵と味方をはっきり分ける。原因と責任者を単純化する。
感情に直接訴える言葉で語る。
複雑な社会問題が「あいつらが悪い」「これを倒せば解決する」という物語に変換される。
気持ちいいほどわかりやすい。
移民問題、経済格差、安全保障。
どれも複雑な要因が絡み合い、簡単な解決策がない問題だ。
だが「〇〇が諸悪の根源だ」と言われると、なるほどそうかもしれないと思えてくる。
複雑なものを複雑なまま抱えているのは、けっこうしんどい。
単純な敵がいてくれたほうが、気分は楽だ。
これは政治家だけの問題ではない。
私たちの側に、わかりやすさを求める心理があるからこそ、
そうした言葉が力を持つ。
AIによる要約や説明も、同じ方向に作用しうる。
わかりやすさが加速し、考える前に「理解した気分」だけが先に来る。
理解した気分は心地いい。
「なるほど、そういうことか」と納得した瞬間、思考は止まる。
わかりやすさは、本来、思考を助ける道具だったはずだ。
入口であり、足場であり、次の一歩を踏み出すための手がかり。
それがいつの間にか、思考を終わらせる装置になりつつある。
抽象と具体の往復運動
では、どうすればいいのか。
わかりやすさを疑うことは、難解さを礼賛することではない。
「わかりにくいほど偉い」わけでもない。
学術論文が難解なのは、深いからではなく、書き方が下手なだけという場合も多い
(これは自戒を込めて)。
必要なのは、「今はわかりやすくしてよい段階なのか」を問い続けることだと思う。
本質に迫るには、一度、具体から離れて抽象度を上げる必要がある。
個別の事例を横断し、共通する構造を見る。鳥の目で全体を俯瞰する。
この作業なしに、本質には届かないと思う。
だが、抽象度を上げた瞬間、議論は不安定になる。
「それは抽象的すぎる」
「もっと現場の話をしてほしい」
「具体的には何をすればいいんですか」
そう言われ、議論は再び具体へ引き戻される。
これ自体は悪いことではない。
抽象ばかりで具体がなければ、それは空論だ。
抽象と具体を往復すること自体が、思考のプロセスなのだから。
問題は、具体の側にしか着地が許されない空気があるときだ。
抽象に上がろうとするたびに「で、具体的には?」と引き戻される。
往復ではなく、片道切符になる。
そうなると、構造を見ることができない。
目の前のモグラを叩き続けるだけで、
なぜモグラが出てくるのかを考える余裕がなくなる。
高さを確認するという作法
冒頭に書いた「議論が噛み合わない」問題に戻ろう。
抽象度のレベルが違うまま話しているとき、必要なのは「どちらかに合わせる」ことではない。
まして「お前が降りてこい」「お前が上がってこい」と言い合うことでもない。
必要なのは、「今、どの高さで話しているか」を互いに確認することだと思う。
「私は今、そもそもの目的の話をしています」
「私は今、明日何をするかの話をしています」
これだけで、すれ違いはかなり減る。
どちらが正しいかではなく、
どちらの階層の話をしているのかを共有する。
たったそれだけのことが、驚くほど難しい。
なぜなら、自分が今どの高さにいるかは、自分には見えにくい
わからなさに耐える力
最後に、もう一つだけ。
すぐには理解できないこと。
一度では腑に落ちないこと。
答えが一つに定まらないこと。
そうした「わからなさ」に、少しだけ耐える力が、今の時代には必要だと思う。
わかりやすい答えは気持ちいい。
「なるほど」と言える瞬間は快感ですらある。
だが、その快感を少しだけ保留にする。
「本当にそうか?」「何か削られていないか?」と、一呼吸置いてみる。
本質は、たいていその先にある。
わかりやすさの手前ではなく、わからなさの向こう側に。
わかりやすさに安心しすぎない。
わからなさから目を逸らさない。
そして、相手と自分が今どこにいるのかを確かめながら話す。
これが、複雑な時代を生きるための、思考と対話の作法なのではないかと思う。
もっとも、こんな長い文章を書いておいて
「わかりやすさに安心しすぎるな」というのも、どうかとは思うが。
