代表の木村です。
プロローグ:テレビは観ない、本は読む、しかしAIには命令する
最近、自分の知的生活(って程、大したもんではない、もちろん。しかし、代替する言葉がみつからないのだ)がだいぶ崩壊している自覚がある。
朝起きてから寝るまで、私はほぼ一日中AIに話しかけている。Claude CodeやGitHub Copilotで開発をして、Claudeに資料の要約をさせ、議事録の整理をさせ、経営指標の分析をさせている。過去8か月でずいぶん多くの開発案件を、AIと二人羽織のような格好で実装してきた。
便利だ。本当に便利だ。 便利すぎて、怖い。
「あれ、私、最近ちゃんと自分で考えたっけ?」
先日、ふと先方への提案メモが必要になり、Claudeに「私の考えをまとめて」と頼んだ。返ってきた文章を読んで「お、なかなかいいこと言うじゃん俺」としばし悦に入っていたのだが、3秒後にハタと気づいた。
……これ、俺が書いたんじゃないやん。
AIに自分の考えを代弁させて、それに自分で感心しているという、極めて滑稽な一人芝居である。ボケと観客を一人で兼任している状態だ。ツッコミ役だけがどこにもいない。
そんなときに、本棚から大澤真幸さんと鷲田清一さんの対談を引っ張り出して読み直した。テーマは「教養とは何か」。 お二人は、こんなことを言っている。
テレビは情報が一方的に流れてくるからパッシブになる。本は自分で速度を調整するから能動的になる。だから、教養は本でしか身につかない。
なるほど、と思いつつ、私は、冷や汗をかいていた。 だって、テレビなんてもう何年も観ていない。私が今いちばん時間を費やしているのは、テレビでも本でもなく、「AIとの対話」である。
これは、果たしてパッシブなのか、能動的なのか。 ChatGPTやClaudeに「要するに」と頼んだ瞬間、私は自分の脳の一部を外注している気がする。 逆に「もっとこう書いてくれ」「いや、その論拠は弱い」と詰めているときは、ふだんよりよほど能動的に頭を使っている気もする。
どっちなんだ。
そういうわけで、今回は「パッシブにならない教養」について、仮にもIT屋の代表という立ち位置から少しじっくり考えてみたい。 最後まで読んでいただけたら嬉しいけど、途中で寝落ちしても恨まない。私の文章は、毎度そういうリスクと共にある。
第1章:受動と能動を分ける、たった一つのスイッチ
大澤・鷲田のお二人の議論を私なりに整理すると、こうなる。
受動的な体験は、情報が向こうから一方的にやってくる。テレビ、ラジオ、最近で言えば短い縦動画。 こちらは座って口を開けていれば、勝手に何かが流し込まれる。
能動的な体験は、自分で速度や順序を制御できる。 本がその代表で、読むのを止めたり、戻ったり、線を引いたり、付箋を貼ったり、眠くなって投げ出したり(これも立派な能動的選択である)できる。
マンガや映像も、入口としては悪くない。 しかし最終的には、書籍まで降りていかないと「教養」と呼べる深さにはならない、というのがお二人の見立てだ。
ここで、ふと「AIとの対話」を当てはめてみる。
ChatGPTに「●●について教えて」と一言投げて、出てきた答えを「ふむふむ」と読むだけ。 これは、テレビと変わらない。流し込まれているだけ。
一方で、答えに対して「いや、それは前提が違う」「もっと別の角度はないか」「あなたが今書いた論理の飛躍を指摘してくれ」と切り返す。 これは、本を読みながら著者と対話するのに近い。
つまりAIは、使う側の姿勢次第で、テレビにも本にもなる、不思議な装置なのだ。
困ったことに、此方が口を開けていると、AIはテレビ化する。 それも、信じられないくらい愛想のいい、自分の都合に合わせて要約してくれる、超優秀なテレビになる。
第2章:優れたデザインは、なぜ人を能動的にするのか
大澤・鷲田の対談で個人的に膝を打ったのは、「優れたデザインの三要素」の話だった。 お二人は、こう言っている。
- パッシブにしない:機能を盛り込みすぎない。余白と遊びを残す。
- 多義性:一つの使い方に閉じない。いろんな使い方ができる。
- 批評性:日常の当たり前を、ちょっと問い直す。
例として挙がっていたのが、子どもの絵本だ。 GW中に、生後半年の孫が娘夫婦とやってきた。教育熱心な夫婦は、孫に絵本を見せている。この世に生まれ出てまだ半年の乳児に絵本て…って思ったが、孫はじっと見ている。ピカピカ光る色彩の絵本だから、見えてはいるはずだ、と娘が言う。爺は、そんならと描かれているピカピカ光るクジラさんやウサギさんに成り代わって孫に話しかけた訳だ。 そこで思い出したんだけど、乳児用だから勿論、文字はない。話は爺が創作することになる。娘や倅が幼いころ、同じようにお話を創作してやったことを思い出した。子供たちは、喋れる頃になって、自分たちが、真似してお話を創作して喜んでいた。
最近の絵本は、教育効果を狙って情報がぎっしり詰め込まれているものがある。「学べる」「身につく」「賢くなる」。が、実は子どもはそういう絵本に飽きるのが早い。 名作と呼ばれる絵本ほど、絵に余白があり、文章が少なく、解釈の余地が広いんだね。子どもは、その隙間に勝手に物語を作って遊ぶ。
台所もそうだ、と鷲田さんは言う。 昔の台所は、料理もするし、洗濯物もたたむし、子どもが宿題をするし、ご近所さんがお茶を飲みにくる。多義的な空間だった。 最近のシステムキッチンは、料理に特化しすぎていて、それ以外のことに使いにくい。便利だが、想像力が遊ぶ余地が少ない。なるほど、確かに。
そして批評性の例が、坂茂さんの「四角いトイレットペーパー」だ。 普通のトイレットペーパーは丸い。だから抵抗なくスルスル出てきて、無駄に使ってしまう。坂茂さんは、わざとペーパーの軸を四角にして、回転に「カクッ、カクッ」と引っかかりをつくった。これによって、使う人は「あ、自分は今、紙を消費しているんだ」と一瞬意識する。日常の自動化に、ちょっとブレーキをかけるデザインだ。
これ、AIの設計とまったく同じ話じゃないか、と私は思った。
機能を盛り込みすぎると(=何でもやってくれるAIにすると)、使う側は完全にパッシブになる。 一つの正解に閉じる設計にすると(=こちらの意図を「忖度」して一発で答えを返してくると)、ユーザーは自分の問いを磨かなくなる。 そして、批評性のないAIは、ユーザーの「自動化された問い」に対して、自動化された答えをひたすら返し続ける。
これが、いま世界中で起きている「AIによる思考の薄味化」の正体ではないか、と私は思っている。 AIが悪いんじゃない。 私たち使う側が、AIをテレビとして使っているのが悪いのだ。
第3章:検索という、自分の語彙の牢獄
お二人の対談で、もう一つドキッとしたのが、検索についての指摘だった。
ネット検索は、自分が知っている語しか入力できない。だから、本当に未知のものには出会いにくい。
これは、ここ数年ずっと感じていた違和感の正体だった。 私は毎日、Googleで検索する。Bingでも検索する。最近はChatGPTやClaudeに尋ねる機会が圧倒的に増えた。
でも、よく考えるとこれは全部、自分の語彙の中で円環しているだけなのだ。 「Azure OpenAI 料金」と打てば、Azure OpenAIの料金は出てくる。当たり前だ。ちなみに、その料金を検索しているということは、もうすでに弊社の経理担当者が眉間にシワを寄せているという意味でもある。検索バーに辿り着いた時点で、我が家で言えばルンバに蹴り出されているのと同じ状態だ。 だが、「Azure OpenAIなんてサービスがあること自体を知らない人」は、永遠にAzure OpenAIに辿り着けない。経理に怒られることもないので、ある意味で平和とも言える。
東浩紀さんが『弱いつながり』で書いていた「検索ワードを得るために旅に出ろ」は、まさにこの話だった。新しい検索語は、検索の中からは生まれないもんね。検索の外、自分の知らない世界に出かけないと、永遠に私が尋ねることのない言葉が埋もれていくことになる。
これが、本という媒体の不思議さである。 本は、自分が知らない単語、知らない概念、知らない人物、知らない論理に、ページをめくった瞬間に「いきなり」出会わせてくれる。
10年前、私は「フィッシャーの正確検定」という統計用語を全く知らなかった。 ある日、たまたま読んでいた本にそれが登場した。読み終わったあと、私は検索バーに「フィッシャー 正確検定」と打てるようになっていた。 本は、私に新しい検索語をくれたのだ。
AIとの対話も、似ているようで似ていない。 AIに質問を投げているとき、私は自分の語彙の中で泳いでいる。AIは私の語彙を踏まえて、私が分かりやすい答えを返してくる。これはまあ、お気に入りの温泉だ。だけど、温泉に入っているうちは、新しい語彙は獲得できない。
たまに本屋に行って、買うつもりのなかった棚で、買うつもりのなかった本を、なんとなく手に取る。これだけは、AIには代替されない知的経験である、と私は今のところ思っている。
(数年後、撤回しているかもしれないが)
第4章:読書は孤独。でも、孤独だけでは続かない
ここで一つ、自分自身の話をする。
私は、真冬にベランダで雪をかきながら煙草を吸う変態である(前回のブログを参照されたい)が、同時に、本もそれなりに読む。だが、正直に言うと、「自分の意志だけで」読み続けるのは、けっこうしんどい。
大澤・鷲田の対談で、面白い指摘があった。
旧制高校には、いわば「裏カリキュラム」のような必読書リストがあった。「あれを読んでいないと、寮の議論についていけない」「あいつだけドストエフスキーを読んでいない、と笑われる」。 そういう他者からの軽い圧力が、若者の読書を支えていた。
これは、よく分かる。 私が学生時代に難解な本を読み通せたのは、自分が立派だったからではなく、「読んでいないと恥ずかしい」という空気のおかげだった。先輩がさらっとマルクスやハイデガーの話をしているのに、自分だけ「あ、まだ読んでません」と言うのが嫌で、必死で読んだ。
しかも、正直に告白すると、半分いや1/3も理解していなかった。それでも先輩が去って後輩が入ってくると、私は今度は「マルクスってのはな…」と知ったかぶりで語っていた。後輩はそれを真に受け、自分の後輩に同じ顔で語る。この「読んでないけど読んだフリの伝統」が連綿と続いた結果、いまの日本社会の重層構造ができあがっている、というのが私の学術的見解である(勿論、嘘である)。
つまり、読書は基本的に孤独な行為なのだが、孤独な行為を続けさせるのは、他者の存在である。これは、なかなか深い構造ではあるまいか。
翻って、いまの私の周りはどうか。 正直に告白すると、社内で「最近、何の本を読みました?」という会話が、ほとんどない。 (あったらごめんね、私が知らないだけで)
お客様先でも、同業の経営者の集まりでも、話題はだいたい「最新の生成AIモデルがどうした」「Copilotがアップデートされた」「Claude Codeのバージョンが上がった」。これはこれで楽しいのだが、本の話はあまり出てこない。
これはマズい、と思う。 他者がいない読書は、すぐに自然消滅するからだ。
うちの社員が本を読んでいるかどうかは、正直、私にもよく分からない。社内でそんな会話を聞いた記憶もあまりない。「この本読んでみれば」と紹介してあげたい気持ちはあるのだが、「社長から本を渡されて困っている若手」という構図も、あまり健康的とは言えない。 かと言って、何もせずに「裏カリキュラムが消えた」と嘆いていても始まらない。なので、最近はせめてXで「最近読んだ本」をぽつぽつ呟くようにしている。誰も反応してくれなくても、それで構わない。沼の底で泡を出している魚みたいなものである。いつか誰かが「あ、社長また泡出してる」と気づいて、釣り糸を垂れてくれるのを気長に待っている。
第5章:手で書く、という抵抗
もう一つ、お二人が言及していたのが「手で書くこと」の価値だった。
板書は、思考のプロセスをそのまま見せる。学生は、先生がチョークを動かす速度に合わせて、自分の手も動かす。これが「体に入れる」ということだ。 パワーポイントは、わかりやすいが、記憶に残りにくい。
そう、その通りなのだ。 私はオフィスで毎日のようにPowerPointを使い、自分でも作るし、人にも作らせるし、お客様にもお見せするわけだが、よく考えると、自分が本当に身につけた知識のほとんどは、手で書いて覚えたことだった。
学生時代の物理の式、英単語、漢字、そして社会人になってからの設計図、ネットワーク構成、提案書のラフ。 全部、最初は紙とペンで書いて、書いて、書いてから、ようやく自分のものになった。
ところが、この対談で一つ、笑ってしまった指摘があった。
最近の学生は、板書をスマホで撮るだけで、ノートに写さない。これは便利だが、能動性が著しく低下している。
身に覚えありだ。私もやっている。 セミナーや講演に行って、スライドが映ると、ほぼ反射的にスマホで写真を撮る。あとで見返すつもり、なのだが、ほぼ100%、見返さない。 撮影した瞬間に「保存した」という安心感だけが脳に残り、内容は見事に右から左へ抜けていく。
これは、AIで議事録を取るのも同じ構造だと思う。 便利だ。本当に便利だ。が、自分で議事録を書いていた頃のほうが、会議の内容は明らかに頭に残っていた。「書く」という身体的負荷が、記憶のフックになっていたのだ。
なので、最近は「重要な会議だけは、自分でも手書きでメモを取る」というローテクな運用を、自分自身に課すようにしている。 これは、AI時代における「四角いトイレットペーパー」のような、ささやかなブレーキである。
第6章:AIエージェントを、テレビではなく本のように使う
ここまで書いてきて、最初の問いに戻りたい。 「AI時代に、人はどうすればパッシブにならずに済むか?」
私の暫定的な答えは、こうだ。 AIを「テレビ」ではなく「本」として使う作法を、自分の中に持つこと。
具体的には、こんな心がけだろうか。
- AIの回答に「要するに」を求めすぎない。削られたものに、目を凝らす。
- AIが返した答えに、必ず「で、本当にそうか?」と一度突っ込む。
- AIに「こちらの意図を汲んで」と頼まない。むしろ「あえて違う視点で書いてくれ」と頼む。
- 重要な議論は、AIに任せきらず、紙とペンで一度書き出してみる。
- たまにはAIから離れ、本屋で買うつもりのなかった本を手に取る。
これは別に、AIへの抵抗運動ではない。 私はAIで会社を経営し、AIで開発をし、AIでお客様にソリューションを提供している。AIがなければ、ここ8か月の私の生産性は半分以下だっただろう。
ただ、AIがあまりにもよく働いてくれるからこそ、こちらが完全にパッシブになる危険がある。 雇い主がパッシブになると、優秀な部下も使いこなせない。これは、AIに限った話ではない、ごく古典的な経営の話だ。
エピローグ:批評性のあるAI、批評性のある自分
最後に、坂茂の四角いトイレットペーパーの話に戻りたい。
優れたデザインには、批評性がある。 日常の自動化に、ちょっとした引っかかりを残し、「あなたは今、本当にこれでいいんですか?」と静かに問いかけてくる。
私が今後、AI関連のソリューションを設計していくときに、ずっと心に留めておきたいのは、この「批評性」である。
便利すぎるAIは、ユーザーをパッシブにする。 気の利きすぎるAIは、ユーザーから問いを奪う。 正解しか返さないAIは、ユーザーの教養を痩せ細らせる。
弊社が提供しているAIソリューションは、言ってみれば、人の知的活動を支えるための道具だ。 だとすれば、私たちが目指すべきは、ユーザーを「ラクにさせる」だけのAIではなく、ユーザーが「お、ちょっと考えるか」と一瞬立ち止まるような、引っかかりのあるAIなのかもしれない。
四角いトイレットペーパーのような、AIエージェント。 製品名は『カクッとAI』にしよう、と社員に話したら、全員が黙った。 (中途採用の面接で「弊社の主力製品は『カクッとAI』です」と言ったら、応募者も黙ると思う。これはこれで一種の批評性ではあるまいか)
そして、何よりまず、AIを使う私自身がパッシブにならないこと。 ベランダで雪をかきながら、煙草を吸いながら、本を読みながら、ときどきAIに毒づきながら、それでも自分の頭で考え続けること。
これが、雪国の小さなIT会社の社長として、AI時代に密かに守り続けたい作法である。
実は、今日で68歳を迎えました。正真正銘の老人であります。 SASの桑田さんじゃないが、68歳には68歳だからできる仕事を残していきたいと思ってる訳です。
― 本日も「要するに」と言われそうな長文をお送りしました
画像はOpenAI Image2で作成