代表の木村です。

プロローグ:青森は、八月に沸騰する

青森の八月は、相転移から始まります。

普段は静かな、どちらかと言えば省エネ運転のこの街が、ねぶたの一週間だけ、「ラッセラー」の掛け声とともに沸騰する。水が百度で蒸気に変わるように、街全体が別の物質になる。跳人(はねと)たちは分子運動そのものである。そして祭りが終わると、何事もなかったかのように、街はすっと元の液体に戻る。毎年見ていて、これはもう気象現象ではなく物理現象だと思う。

そんな沸騰した街を横目に、私はエアコンの効いた部屋で本を読んでいました。ザハーン・パーマル『ビジネスと人生の課題を解決する 物理学の思考法』。著者は物理学を修めたのち、いまはGoogleでシニアディレクターを務めている人だという。物理学者が巨大IT企業の幹部をやっている時点で、すでに一冊分の説得力がある。その中に「別れの物理学」という章があって、これがまた、自らの若き日の失恋を持ち出して、恋愛と選挙と原子炉を同じ理屈で説明しようという、なかなか豪儀な章なのである。

曰く、良い関係と悪い関係の違いは、突き詰めればひとつ。安定性だという。

良い関係は、谷間に置かれた二個のボールだ。どちらかを軽く弾いても、勢いで谷壁を少し上るが、重力と谷の曲率で転がり落ち、谷底の真ん中でまた出会う。

悪い関係は、丘の頂上でバランスを取っている二個のボールだ。同じボールを、同じ強さで弾いただけなのに、今度は斜面を転がり落ちて、二度と戻らない。

読みながら、私も遠い昔の自分の恋愛を思い出そうとしてみたのだが、何しろ半世紀も前のことである。谷だったのか丘だったのか、地形そのものがすっかり風化して、記憶の中はもう平野だった。物理学では説明のつかない浸食作用が、68歳の脳内では日々進行している。

というわけで、色恋の検証は地質学者に任せることにして、私はこの「谷と丘」を、もっと身近な場所に持ち込んで考えることにした。会社である。社長と社員、会社とお客様、部門と部門——二個のボールなら、そこら中に転がっている。しかも弊社の場合、ボールが18個もある。

第1章:世論調査はなぜ外れ、社内アンケートはなぜアテにならないのか

著者がこの章を書いた動機は、2016年のブレグジット国民投票である。投票前夜の世論調査では残留派が10ポイントもリードしていた。ところが翌朝、蓋を開けてみれば離脱派の勝利。数か月後にはアメリカで、圧勝予想だったヒラリー・クリントンがトランプに敗れる。世界は立て続けに、「みんながそう言っていたのに、そうならなかった」を二回経験した。

なぜ世論調査は外れるのか。著者の答えのひとつが、これだ。

人は、言葉では嘘をつく。行動は、つかない。

「子どもにジャンクフードを与えるのは良くない」と答える親は多い。しかしマクドナルドは今日も満員である。「社会的望ましさのバイアス」というやつで、人は他人の前では、実際の自分より少しだけ立派な自分を報告する。だから物理学者はこう言う。「言葉ではなく、行動を測定せよ」。

これ、経営者の皆さんは思い当たる節がおありでしょう。そう、社内アンケートである。

「経営方針に共感していますか」——はい、85%。
「社長のブログ、読んでますよ」——ありがとう。心から嬉しい。

……のだが、私はアクセスログを開く勇気が、まだない。測定という行為が現実を変えてしまうことを、量子力学は教えてくれる。ならば測定しないでおけば、私のブログは「全社員に読まれている」と「誰にも読まれていない」の重ね合わせ状態のまま、幸福に存在し続けられる。シュレーディンガーの社長ブログである。

第2章:会社は、気づかぬうちに相転移する

この章でもう一つ面白いのは、アメリカ大統領選挙の分析だ。MITの若い物理学者らが戦後の選挙結果を調べたところ、1945年から1970年頃までは、選挙は「谷間のボール」だった。政権交代はあっても、当選者は皆おおむね中道に収束し、路線は連続していた。ところが1970年代を境に、システム全体が相転移を起こす。以後、選挙のたびに振り子が左右へ大きく振れ、勢いを増していく。オバマからトランプへ、という具合に。

相転移。やかんの水は、99度まではただの熱い水だが、100度を超えた瞬間、蒸気という別物になる。鉄は769度——ロウソクの炎ほどの温度——に達した途端、磁石にくっつかなくなる。個々の分子や原子は何ひとつ変わっていないのに、全体としての振る舞いが、ある一線を境にガラリと変わる。しかも、その一線を越える直前まで、見た目はほとんど変わらない。

怖いのはここだ。変化は「徐々に、これまでと同じ方向で」起こると、私たちは思い込んでいる。1970年のアメリカ人が「この安定は続く」と思ったように。

会社も、業界も、同じである。生成AIの世界にいると、この2〜3年、足元で温度計の目盛りがぐんぐん上がっているのが分かる。昨年まで喜ばれた提案が、今年はもう当たり前になっている。個々の技術者は同じ顔で出社しているのに、業界全体の「相」が変わりつつある。やかんの中の水分子に「そろそろ沸騰しますよ」と教えてくれる親切な誰かは、いない。泡が出始めてから慌てるのが、水分子と経営者の常である。

ちなみに鉄は、769度以下に冷やせば磁性が戻る。会社は、どうだろうか。一度磁力を失った組織に、社員というボールがもう一度くっついてくれる保証は、物理学のどこにも書いていない。

第3章:会議で黙るあなたが、会社を丘の上に運んでいる

さて、この章で私が一番唸ったのが、ネガティブ・リプレゼンテーションという現象である。

有権者の分布が中央にピークのあるベルカーブなら、候補者は中道に寄り、システムは安定する。ところが二極化が進むと、分布は真ん中が凹んだM字型になる。すると候補者は中間層を無視して左右どちらかの山に全振りしたほうが勝てるようになり、有権者の意見のわずかな変化が、結果を大きく——ときには意見が動いた方向とは逆に——振らせる。丘の上のボールを左に弾いたのに、右に転がり落ちる。まったく直感に反するが、2016年に実際に起きたのは、まさにこれだったという。

そして、この不安定さを増幅する最大の要因が、棄権である。投票率が下がると、残るのは両極端の熱心な人たちばかりで、M字はますます深くなる。だから著者の処方箋は身も蓋もない。「気に入る候補がいなくても、鼻をつまんででも投票せよ。参加者が増えるほど、谷は深くなり、システムは安定する」。

これを読んで、私は選挙のことより先に、会議室のことを考えてしまった。

会議で「どっちでもいいです」と目を伏せる人。「皆さんの意見に従います」と議事録係に徹する人。あれは会議における棄権である。中間層が黙れば黙るほど、会議室の分布はM字になり、声の大きい両端の二人だけで意思決定が振れる。右に振れ、次の会議で左に振れ、現場は振り子に酔って船酔い状態になる。あなたの沈黙が、会社を丘の上に運んでいるのだ。

——と、若い社員に説教したいところなのだが、正直に白状する。

弊社の会議で棄権率を押し上げている最大の要因は、たぶん、冒頭三十分喋り続ける私である。社長が先に結論めいたことを言えば、全員が棄権する。谷を深くするどころか、ブルドーザーで谷を埋めているのは私だった。物理学は、ときどきこうして人を静かに殴ってくる。

第4章:ベイズ後悔、あるいはキットカットの経営学

章の後半には「ベイズ後悔」という物騒な言葉も出てくる。あらゆる意思決定について、最善の選択がもたらしたはずの効用と、実際の選択の効用との差。それが後悔の量である、と18世紀の統計学者は定義した。

著者の例えが秀逸で、健康食品だけを100ドル分買うつもりでスーパーに行き、気づけば30ドル分キットカットを買っていたら、ベイズ後悔は30。分かる。分かりすぎる。私の場合、健康のために始めたランニングが熊の目撃情報で中止になり、浮いた時間でベランダの煙草が一本増えるので、後悔の複利計算が追いつかない。

ブレグジットでは、離脱に投票した人の5人に1人が後に「反対に入れればよかった」と答えたそうだ。「どうせ残留が勝つだろう」と抗議のつもりで離脱に入れたら、本当に離脱してしまった人たち。抗議票とは、丘の上のボールを「ちょっとだけ」弾いたつもりの指なのである。ボールは、ちょっとだけでは止まってくれない。

経営者の帳簿にも、ベイズ後悔の欄はない。あの案件、あの値付け、あの一言。載らないからこそ、夜中のベランダで勝手に棚卸しが始まる。AIは多くの計算で私を助けてくれるが、後悔の集計だけは、いまだに人間のほうが速い。頼んでもいないのに。

エピローグ:安定とは、変わらないことではない

章の最後で、著者は自身の結婚生活に戻ってくる。結婚13年。交際、同棲、結婚、引っ越し、親になること、身内を失うこと——夫婦は何度も「転移」を経験し、しきい値を越えるたびに、関係を修復するのが上手くなったという。そして、こう結ぶのだ。

安定とは、変わらないことではない。転移を乗り越えるたびに、少し強くなって立ち現れることだ、と。

これは夫婦の話であり、会社の話であり、たぶん国の話でもある。18名の弊社の谷を深くするのは、立派な規程でも制度でもなく、一人ひとりが会議で黙らないこと。そして、代表が喋りすぎないこと。前者は社員にお願いし、後者は……努力目標とさせてください。物理法則と違って、社長の性格は769度に熱しても、なかなか相転移しないのである。

ねぶたが終わると、青森の空気は一日で秋の匂いになります。沸騰した街が、また静かな谷に戻っていく。祭りのあとのこの安定が、実は毎年の相転移を乗り越えてきた結果なのだと思うと、跳ねもせずに沿道でノンアルコールビールを飲んでいただけの68歳にも、少しばかり感慨があるのでした。

——本日も、「要するに?」と言われそうな長文を、最後までありがとうございました。

※ 着想は、ザハーン・パーマル『ビジネスと人生の課題を解決する 物理学の思考法』第5章「別れの物理学」より。深く感謝いたします。ネガティブ・リプレゼンテーションの原論文は Siegenfeld & Bar-Yam, Nature Physics (2020)。
イラストはGPT-Image2による生成。

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