プロローグ:味見をしてから、産む
日経の朝刊に、永田和宏さんの随筆が載っていた。歌人であり、細胞生物学者であり、JT生命誌研究館の館長でもある。
肩書きが三つある人の文章は、だいたい面白い。
館長室の前に「食草園」という一画があるそうだ。蝶の幼虫が食べる草を集めた区画である。イモムシは種によって食べられる葉がきっちり決まっていて、モンシロチョウはキャベツ、ナミアゲハはミカン、クロアゲハはレモン、と細かい。永田さんの言い方を借りれば、蝶の子供はけっこうグルメなのである。
そして幼虫は、生まれた葉から動けない。
親が間違った葉に産みつけたら、そのまま死ぬ。
では親は、どうやって正しい葉を選ぶのか。
産む前に、味見をするのだそうだ。
前脚で葉をコツコツと叩く。にじみ出てきたわずかな化学物質を、脚にある味覚細胞で確かめる。この葉なら大丈夫、と分かってから、はじめて産む。ドラミングというらしい。
私はこれを、青森の朝、コーヒーを飲みながら読んで、考えちゃいましたよ。
館長室の前に、食草園がある。
私の前には社員がいる。
月並みな展開だが許してほしい。
第1章:社長というのは、産む係である
社員をイモムシ呼ばわりするな、と怒られそうなので先に断っておくが、これは産む側の話である。育つ側の話ではない。
社長の仕事は、要するに卵を産む係だ、と思ってて、あの案件はあいつに、この提案はこのチームに。産みつける葉を選ぶ。幼虫は動けない。産みつけられた葉を食べるしかない。
選ばれた側は、選び直せないのである。
そのうちの何回、私は前脚で叩いただろうか。
正直に書くと、けっこうな確率で、叩いていない。「まあ、いけるだろう」という化学物質を、自分の頭の中で勝手に合成して、それを味見の結果ということにして産んでいる。一ヶ月後に「なんでうまくいかなかったんだ」と首をひねる。首をひねってる場合じゃないのだ。首をひねる資格は、こちらには一ミリもない。
蝶のお母さんのほうが、あきらかに経営がうまい。あちらは、知っているから産むのではない。確かめてから産むのである。経営の鏡じゃなかろか。
この差は、思っているより大きい。
第2章:見えていても、見えない
随筆には、もう一つ、いい話が出てくる。
研究館の研究員たちは、虫眼鏡も使わずに、葉の裏にある一ミリの卵を見つける。数ミリのイモムシが葉をかじっているのを、通りすがりに見つけてしまう。「今朝はこの葉にナミアゲハの幼虫が一匹いました」と、郵便受けを覗いてきたみたいな顔で言う。
永田さんはこれを「虫目」と呼んでいる。
そしてご自身は、見つけられないと正直に書いておられる。
永田さんにも、似た経験はある。一時期、家族そろってキノコに入れあげた。図鑑を何冊も買い、いつも持ち歩き、ぼろぼろになるまで使った。そうしているうちに、林や山だけでなく、街の公園の芝生にも、街路樹のプラタナスにも、キノコが向こうから目に入ってくるようになったという。京都御所の芝生でツルタケを見つけた、というくだりまである。
そして随筆は、この一行に着地する。
無関心であれば、見えていても見えないものだ
— 永田和宏「虫目・キノコ目」より
私はこの一行の前で、唖然とした。
見えていても、見えない。
キノコの話ではない。私は毎日、社員の顔を見ている。網膜には全員映っている。だが、本当に社員のみんなを見ていたのか? 忙しさにかまけて社員を見ていなかったのではないか、の思いが、むくむくと……見えていなかった。
関心を持っていないものは、目の前を通っても像を結ばない。
私の視力の問題ではない。私の関心の問題である。
つまり、世界の解像度を決めているのは、目ではなく、意識のほうなのだ。
第3章:目は、養うものである
ここで救いは、虫目が才能ではないということだ。
研究員は、生まれつき一ミリの卵が見えたわけではない。毎日、葉の裏をめくった。めくって、めくって、ある日から向こうが立ち上がってきた。永田さんのキノコ目も同じだ。図鑑を持っていたから見えたのではない。図鑑をぼろぼろにするまで持ち歩いたから見えたのである。
図鑑は必要条件であって、十分条件ではない。
この区別は、あまりに簡単に混同される。知識を持つことと、見えるようになることは、別のことだ。前者は一晩でできる。後者は、めくった葉の枚数でしか買えない。
しかも厄介なことに、見えるようになった当人は、なぜ見えるのかを説明できない。研究員に「どうやって見つけるんですか」と訊いても、「なんとなく、目に入るんですよ」としか言わないだろう。手抜きの返事ではない。あれ以上、正確には言いようがないのである。
人は、語れる以上のことを知っている。逆に言えば、その人がいなくなったとき、語られなかったぶんは丸ごと消える。
書き残された図鑑は残る。
めくった手は残らない。
第4章:私にも、目がついた時期があった
正直に白状すると、私にも一度だけ、はっきり目がついた時期がある。それがどの時期かは、この文章を最後まで読んでくださる方には、たぶん見当がつくと思う。
ある道具に、このお一年余り、完全に入れあげた。家に帰っても触っている。夜中に起きて触っている。ベランダで煙草をふかしながら、頭の中では触っている。
その結果、何が見えるようになったか。
自分の粗さである。
三十余年、私はこの業界で、ものを考えて、言葉にしてきたつもりでいた。ところがこの道具に向かって指示を出すと、毎日のように突き返される。私の言葉は、驚くほど曖昧なのである。「いい感じにしといて」で通じてきたのは、相手が人間で、私の顔色を読んでくれていたからだった。
見えるようになったのは、世界のほうではなかった。
自分の輪郭のほうだった。
しかも、キノコ目の常として、毒キノコまで見つけてくる。嬉しくなって拾ってきたものを、朝の会議で得意げに広げると、若い社員に静かに「社長、それは食べられません」と言われる。私はまだ、採れることと食えることの区別がついていない。
家族には「またその話か」という顔をされる。妻の目には、夜中に嬉しそうに何かを摘んでいる老人にしか映っていないと思う。68歳の男が、暗いところで一人、笑いながらキノコを探している。傍から見れば通報案件である。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
私に目がついたのは、説明書を読んだからではない。説明書は、最初の一週間で読み終わっていた。残りの九か月と三週間が、目のほうを作った。
そして私が社員に配ったのは、説明書のほうだった。
第5章:誰かが見てくれると、人は見なくなる
ここからが、この文章で本当に書きたかったことである。
いま、世の中には、訊けば即座に答えてくれるものがある。便利だ。私は毎日使っている。この会社は、それをお客様に届けて食べている。
だが、あの一行が、ずっと頭から離れない。
無関心であれば、見えていても見えない。
答えが即座に手に入るとき、人は関心を持ち続ける理由を、静かに失う。葉の裏をめくらなくても、答えは出る。だからめくらない。めくらないから、目は養われない。半年めくらなければ、その人はもう見つけられない。一年めくらなければ、見つけられないことにも気づかなくなる。
これは、道具が悪いのではない。眼鏡は、目を助ける。だが、あまりによく見える眼鏡は、いつのまにか義眼になっている。かけているうちは、よく見える。外したときに、はじめて分かる。
そして誰も、外さない。
私が怖いのはこれである。誰かが代わりに見てくれると、人は見なくなる。見なくなった目は、養われない。養われなかった目は、養われなかったことすら記録に残さない。
失われたものは、記録に残らない。
だから、失ったことに誰も気づかない。
第6章:館長は、虫を見つけられない
もう一度、あの随筆に戻る。
永田さんは、自分では虫を見つけられないと書いている。館長なのに、である。研究員が「今朝はこの葉に」と平然と言うのを、感動しながら眺めている。
それでいいのだ。研究員がいる限り、研究館は困らない。
弊社も同じである。社長は、現場の葉の裏まで見えていない。それでいい。社員がいるのだから。私が見えないことは、この会社の弱点ではない。
問題は、そこではない。
研究員が、葉の裏をめくるのをやめたときである。
そのとき、研究館には図鑑だけが残る。立派な図鑑が、書庫いっぱいに残る。誰も、一ミリの卵を見つけられない。そして誰も、それを損失として計上できない。帳簿に載る科目がないからだ。
私は、人が見えるようになる道具を作る仕事をしているつもりでいる。見なくて済む道具ではなく。この二つは、外から見るとほとんど同じ形をしている。中身は、正反対である。
エピローグ:まだまだ駄目
というわけで、私が最近、社内で言っていることは一つになった。
叩いてから、産め。
出てきた答えを、そのまま卵にして産みつけない。前脚で一度叩く。漏れてくるものを、自分の舌で確かめる。この葉、本当に食べられるのか、と。そして、誰も訊かなかったもののほうに、目を凝らす。訊かれなかったから答えが出ていないだけで、そこに一ミリの卵があるかもしれない。
——と、格好のいいことを書いてきたが、この文章の第1章に戻っていただきたい。叩かずに産んだ卵の話を書いたのは、他でもない私である。
説教している側の羽が、いちばん埃をかぶっている。
永田さんは、随筆をこう締めておられた。
まだまだ「駄目」だが、これから「虫目」を養っていきたい
— 永田和宏「虫目・キノコ目」より
歌人である。駄目と虫目を並べて、七十九歳が最後の一行で韻を踏んでいる。目のない者が、目を養いたいと言っている。
68歳の私も、この一行をそのまま借りることにした。
まだまだ駄目です。ただ、駄目だと言えているうちは、まだ少しは見えているのだと思う。
本当に見えなくなった人は、自分が駄目だということにも、もう気づかない。
雪をかき、煙草をふかし、老眼鏡をずり上げながら、それでも今日も葉の裏をめくることにします。
卵は、たぶん、まだ見つからない。
——本日も、「要するに?」と言われそうな長文を、最後までありがとうございました。
※ 着想は日本経済新聞 朝刊(2026年7月5日)掲載、永田和宏氏の随筆「虫目・キノコ目」より。深く感謝いたします。